一般社団法人大阪代協

堺支部の活動報告

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第5回支部会を開催しました~東日本大震災・閖上の記憶~

2024.09.29

2024年9月25日(水)午後4時10分からあいおいニッセイ同和損害保険(株)堺支社会議室にて支部会と講演を開催し11名が参加して情報交換を行いました。

【理事会報告】

庫内支部長より7月18日開催の理事会報告が行われました。

・審議事項

①2024年度全会員アンケート結果
②日本代協コンベンション参加者選定
③日本代協会員懇談会事前質問
詳細は、下記のリンクをご参照下さい。⇒9月理事会報告リンク入り口

【各委員会報告】

・組織委員会(門口委員より報告)

 代理店賠責セミナーの結果と今後の仲間づくりについて

・CSR委員会(大西副支部長より報告)

 ①防災士資格取得の件
 ②ぼうさい探検隊について
 ③大阪マラソンボランティアについて(参加申込締切ました)

・事業活性化委員(天満委員より報告)

 大阪商工会議所の「サイバーセキュリティお助け隊」提携の説明会について  →  サイバー攻撃への
 備えについて大阪商工会議所経営情報センター課長 野田氏による説明を聞く 

【講演】

講師に津波復興祈念資料館「閖上の記憶」の語り部 丹野 祐子氏を迎え、テーマを「東北地方太平洋沖地震の経験を通して、命の大切さを知る」と題し講演をいただきました。
丹野氏は、2011年3月11日の東日本大震災によって壊滅的な被害を受けた名取市閖上に家族6人でお住まいされていましたが、震災で義理の両親と中学1年生の息子さんを亡くされ家族は3名になりました。

冒頭10分程ビデオ鑑賞をした後、写真を交えながら体験された話をしていただきました。名取市閖上は、仙台空港へ車で10分程で行けるところに位置し、名物として「赤貝」「生しらす」があります。震災でかつて5000人以上が住んでいた街は、更地になってしまいました。震災で家族も失い街も無くなり、全てが無くなった、何にも無くなった、だからこれでおしまい・・・
いやそうではない、ちゃんとここに街があった、たくさんの人が暮らしていた、笑顔と命があったことを忘れないでいて欲しいとそんな思いから今はあの日を語ろうと活動を始めました。

震災の当日は、名取市の中学校では卒業式が行われていました。丹野氏の娘さんも卒業のため式に出席されていました。閖上中学校は、生徒数150名の小さな中学校でした。
卒業式では在校生や保護者が体育館に集まってお祝いをし卒業生を見送ったあと、まさか数時間後にあんな恐ろしいことが起こるなんて誰も考えていませんでした。
閖上の街は、海の近くにあったけど漁師さんなど海に生業(なりわい)を求めている人は決して多くありませんでした。だから海はそこに在ると自覚はしていましたが、海と共に暮らしている、という感覚は正直ありませんでした。地震発生時、私たちは卒業式を終え、謝恩会で食事をして楽しんでいました。その時、大きな横揺れが始まりました。
地震の揺れで建物が倒壊することはなかったのですが、まさか1時間6分後に襲ってきた津波で街が壊滅するとは誰も予想しなかったのです。過去に大きな津波の経験がなく、お年寄りからも大丈夫だと言い聞かされてきたので揺れが治まった時、自宅に戻り片付けを始めていました。電気が点かない、水道が出ない、晩御飯どうしよう、とそんなことを考えていました。近所の人も集まっていたので安心感もありました。そんな時、津波警報が出ているのを知りましたが高波ぐらいで大したことはないだろうと思い、周りにも大騒ぎをする人は誰もいませんでした。
 誰かが「津波だ!」と大きな声をあげました。東の空に真っ黒な煙がもくもく沸いていました。
その煙は、津波が家と家をドンドンとドミノのようになぎ倒していくときにできた砂煙でした。
私は建物に上り難を逃れたのですが、息子の姿を見失っていました。街全てが目の前で津波に飲み込まれていきました。同じ場所へ避難した人が100人以上いたはずなのですが、建物の上で点呼を取ると生き残った人は28人でした。たった一度の巨大津波で私たちの街が全てが「がれき」という言葉に変わりました。

震災後は、1ヶ月間中学校の体育館で過ごしました。この間、行方不明になった家族を捜しました。義母が1週間後、息子が2週間後、義父が1ヶ月後にがれきの中から見つかりました。閖上中学校では14名の生徒が津波の犠牲となりました。息子もその一人です。息子のことを思うと「なぜ自分だけ生き残ったのか?」と後悔する日々が続きました。ある日、閖上中学校の校舎の机を借りて我が子のための献花台を作りました。「14人の子供たちがちゃんとここにいたんだよ」「写真もビデオも何にも証拠は残っていないけどここにいたんだよ」と忘れないで欲しいと思い、震災後の2012年3月11日に「閖上中学校遺族会」を立ち上げ、親が最初に送った贈り物「名前」を残そうと14名の名前を刻んだ慰霊碑を建立しました。この慰霊碑を守るために生まれたのがプレハブで建てた「閖上の記憶」です。

館内はシアタールームと子供たちの遺品を展示しています。現在、慰霊碑は新しくできた閖上小中一貫校に移設されています。
閖上の街は、海抜5mにかさ上げされ新しい街に生まれ変わりました。
以前は2500軒5000人が住んでいた街は、今は1300軒3000人が暮らす街になっています。6年前、名取市は復興宣言をしたのですが、でも私は正直復興とは思っていません。亡くなった人が帰ってこない限り復興とは思いたくない。私は「復旧した新しい街」と思っています。

亡くなった息子は、小遣いで毎週月曜日に漫画本「少年ジャンプ」を買っていました。息子の供養のため毎週少年ジャンプを買い続け我が家の本棚に並んでいます。息子に「勉強しなさい、宿題しなさい」とあんなに口うるさくいわなければよかった。「親より先に死んではいけない」と一番大事なことを伝えられなかったのかと後悔しています。このような話をあちこちでするようになりました。
閖上地区の震災の様子は何も残っていないので私たちは、あの日の様子を言葉で伝えようと活動を始めました。なぜ語るのか、それは歴史は必ず繰り返すからです。きっとまた同じことが起きます。その時私のように「大丈夫。津波なんて来ない」そんなバカな考えを言う親が二度と生まれて欲しくないから。大事なものは目に見えないんだよ。失って初めて気が付いたこの思いを言葉にしていきます。最後に閖上地区は何もない所ですが、機会があれば是非「閖上の記憶」に足をお運びくださいと述べられ締めくくられました。

講演を聞いて、震災の恐ろしさもそうですが、人の心にある「油断」、自分だけは大丈夫と思う「正常化バイアス」が最も恐ろしい、ということを痛感しました。
西日本でも、南海トラフ、東南海トラフによる地震がいつ発生してもおかしくありません。もしその時が来たら、自分も、周りの皆さんにも、正しい危機感をもって対応できるよう心の準備、物理的な準備を怠らずにいたいと思いました。
丹野 祐子さん、わざわざ堺までお越しいただき本当にありがとうございました。

(記事:堺支部 大谷記者) 

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